北緯31度のパティスリー

コガネセンガンの生みの親、坂井健吉先生へ捧ぐ。

足元の石碑 ── 産地の危機を起点として

私たちの工場の敷地には、一人の研究者を顕彰する石碑が立っています。
農学博士・坂井健吉先生の石碑です。

この石碑が建立された背景には、2020年に発生したサツマイモ伝染病「基腐病(もとぐされびょう)」の蔓延があります。当時の産地にとって、それは社会における新型コロナウイルスと同じような衝撃を伴う事態でした。作付面積は急激に減少し、地域の主要産業は存続の危機に直面しました。 この崩壊という現実に直面したことで、私たちは、コガネセンガンという品種が単なる農産物を超え、地域産業を繋ぎ止めていた不可欠なインフラであったことを再認識しました。

「感謝の石碑」除幕式
── コガネセンガンが築いたローカリズム

石碑の除幕式には、焼酎蔵、菓子メーカー、澱粉工場、行政、農家といった、普段は異なる領域で活動する組織が集まりました。

彼らは「コガネセンガンの不在」がもたらす経済的・文化的な破滅を共有し、初めて一つの源流の下に集結したのです。 自社独自のこだわりだと思っていた価値が、実は地域全体の共通言語であったという事実。この石碑は、危機の最中に、私たちがその価値を公に認め、感謝を形にした記録です。坂井先生は、この式典を最後の公式の場として逝去されました。一人の研究者の成果が、地域の誇りとして着地した瞬間でした。

ジャパンスタンダード
── 半世紀を超えて君臨する日本最大の絶対王者

サツマイモの金字塔「コガネセンガン」

1966年に誕生したコガネセンガンは、55年以上にわたり日本最大の栽培面積を誇る品種として君臨し続けてきました。農研機構からは毎年新しい品種が誕生し、その中には必ずコガネセンガンの代用品種が含まれますが、この芋はそれら全ての挑戦を退けてきました。その存在感は、茶の「やぶきた」、馬鈴薯の「男爵」に並ぶ、日本作物の重要品種と目されています。

① 鹿児島の芋産業の基盤を築く

元来、デンプン用として開発されたコガネセンガンは、従来の品種(農林2号)を収穫量・デンプン歩留の両面で圧倒しました。デンプン歩留の向上は、九州全体のデンプン産業に多大な利益をもたらし、輸入自由化の波に押され関東の工場が閉鎖していく中で、地域のデンプン産業を力強く支え続けました。

② 焼酎王国「鹿児島」を築き上げた芋

1970年代の焼酎ブームを支えたのもこの芋でした。それまで地酒の地位に甘んじていた芋焼酎の品質向上のため、業界が選定した最高の原料こそがコガネセンガンでした。これにより、飲み手と作り手の間で「芋焼酎の基本」が定義され、味と香りのスタンダードが確立されました。 現在、鹿児島には日本最多となる100以上の焼酎蔵があり、これは全国の蔵元の約2割にあたります。その蔵元の多くが、自社の代表銘柄の原料として今なおコガネセンガンを採用しています。

③ 銘菓の原料として

1980年代以降、コガネセンガンは菓子原料としても不動の地位を築きました。「芋けんぴ」や「唐芋レアケーキ」をはじめとする、数々の銘菓の主原料として選ばれ続けています。たった一品種が半世紀以上にわたり地域経済の屋太骨となり、計り知れない波及効果を産地にもたらしてきました。

④ サツマイモの「金字塔」としての血統

コガネセンガンは、世界中から取り寄せた100品種以上の芋を基に、1,000種もの交配を経て選抜された多国籍な遺伝子を持っています。そのため、現在の人気品種「紅はるか」をはじめとする多くの新品種の母本(親芋)となりました。育種家たちは、この芋を敬意を込めて「サツマイモの金字塔」と呼びます。

⑤ 九州南部という唯一の適地

コガネセンガンの良質な栽培地は、北限を霧島火山付近、南限を本土最南端とする九州南部に限られています。シラス台地の土壌や南国の気候など、この土地特有の風土が、この品種のポテンシャルを引き出す不可欠な要素となっています。まさに、この土地にのみ許された唯一無二のスタンダードなのです。

これほどの産業的功績を持ちながら、一般における知名度は極めて低いのが実状です。知名度の低さは、品種存続の危機に直面した際の社会的関心の低さに直結します。このままでは、日本が誇るべき絶対王者が静かに消えていく可能性があるのです。

ニュージャパンスタンダード
── 鮮度と澱粉特性の深掘り

コガネセンガンの魅力をケーキでお届けしたい。

この危機に直面して、コガネセンガンをテーマにした菓子作りが始まりました。 私たちは、日本一の芋処が誇るこの原料芋の魅力を引き出し、これまでにない美味しさを構築する「ニュージャパンスタンダード」への挑戦を開始しました。 着目したのは、坂井先生が残された資料にある「澱粉粒子の均一性」という特性です。サツマイモの評価軸として一般的な「貯蔵による熟成」ではなく、私たちは「掘りたて・蒸したて」の鮮度が生む、新鮮で整った澱粉粒子の美味しさを選択しました。 焼き芋のような加工香ではなく、蒸した瞬間に立ち上がる本来の芳香。そして、新鮮で整った澱粉粒子がもたらす唯一の美味しさ。そんな味わいをお菓子にしようと、私たちは「ほろ雪」プロジェクトへ着手いたしました。

循環する土 ── 石碑の前での誓い

コガネセンガンを守る「小さな農業」への取り組み

コガネセンガンの栽培において最大の課題は、連作障害による病害のリスクです。私たちは、品種を守り抜くための対策として、自らの目の届く範囲で丁寧な「輪作農業」を開始しました。 サツマイモ、小麦、ピーナッツ。このサイクルを繰り返すことで、3年の月日をかけて熟成された堆肥のような土──「チョコレートソイル」へとたどり着きました。

菓子を作ることは、土を作ること。 私たちは今日も、敷地内の石碑に誓います。坂井先生が設計された「生命の秩序」を、この小さな土と、この菓子を通じて、次世代へと繋いでいくことを。

PAGE TOP